夫しんの詳細プロフィール

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生い立ち

陸の孤島 宮崎県に生まれ育つ

 

 

宮崎県という、ど田舎で育ちました。のどかで晴れ間が多く、暖かいところです。

九州の中でも、宮崎県といえば、新幹線が通っておらず、交通の便が悪いのが特徴。

父は高卒のサラリーマン、母はパートタイマーの一般的な家庭に生まれ育ちました。兄と二人兄弟です。

 

「努力は実らない」と学んだ浪人時代

「しんは頭がいいね」と周りから言われて育ってきました。大して勉強してなくても、学校のテストの点数はそこそことれてました。

田舎の優等生あるある。周りより少し成績が良いからといって、自分が本気で頭がいいと思いこむパターン。私はそうでしたね。

 

「自分は努力してるし頭もいい。だから合格するはずだ。」

そんな感覚で、疑ってなかったし、勉強しまくってました。結果は不合格で見事に50点アンダーで惜しくもなんともない。

結局舞台はどこで?という話だね。

結果合格したわけですが、その時の気持ちは、虎視眈々。自分はやれば合格できるんだ!という感覚ではなくて。

ただ、当時はプライドが高すぎました。浪人生活をへて、失敗する人の気持ちを理解できるようになりましたね。

多分、これ、いけないなと思います。

「京大生」のむずかしさを知る

入学した京大生の大半が思うこと。

「京大生、入学したらただの人」

これまで受験勉強しか取り柄がなかった人たちが一道になる。

そんな私は、いつしか思うようになりました。

「勉強ばかりできるやつはただダサい」

私はアルバイトで塾、家庭教師、焼肉屋のアルバイトをしながら、サークルも掛け持ち(剣道、合唱)運営にもかかるようになりました。

当時彼女もでき、順風満帆の生活を送り、「自分の取り柄は勉強だけではないんだぞ」なんてふうに思っていました。

同じ京大生から受ける刺激は圧倒的に強く、衝撃を受ける一方で、「自分は大した人間ではない」ことを自分の中で咀嚼する期間でもありました。

なんとなく進学した大学院

大学に入学したとき、自分は食の分野の専門家として、学者になるつもりで入学しました。そのこともあり、迷わず大学院に進学しました。

ただ、大学院に行ったといっても、京大生の理系の人の約8割は同じ大学院に進学するという状態。

別に学部時代となんら変わらない生活が+2年間でやってくるといった感覚でした。

「大学も、結局は金なんだな」

大学では、自分でやりたい研究というのはできませんでした。

「実験系」という考え方があります。

「その研究室でできる実験」の範囲のものしか、研究対象としては難しいです。

例えば、サルを用いた実験などは、サルを飼育できる環境をもった研究室でないと、そもそもテーマとして扱えないと言った具合です。

私は、企業案件の実験に回されることになりました。研究成果が出れば、研究室にお金が入ってきます。私には入ってこないですが。

というわけで、どうせ技術をやるのであれば、お金をもらいながらできるところがいいなと思いました。しかも自分が技術に向いているとも思っていなかったので、何かしらできるか、企業で働いて模索したいと思うようになりました。

 

就職活動は難航

就職に関してもなんとなくからでした。

大学内では「大企業の研究職」に就職するのが、ある種の美談のように語られ、そうあるべきだと信じていました。

私もよくわからないまま。

ただ、いまいち腑に落ちてなかった「学生時代に頑張ったこと」を論理的にしゃべる面接が、自分の中で最初はなかなか納得がいきませんでした。

面接を重ねていくうちに、30社くらい受けましたね。

「ここの食品、昔から好きだから受けてみるか。広島にも旅行がてら行ってみたいし。」

そんな気持ちで受けた企業に、私はお世話になることになります。

経営者の世界を見た、食品企業時代

広島県の中小食品企業に開発職として入社しました。

「とにかく自分はここで出世するんだ」いきごんで仕事は熱心に取り組んでた方に思います。

ただ、自分には何が向いているのか?を常に疑っている時期でもありました。

他の京大生が経験しないようなことを経験できることを期待していました。

感謝しきれないくらい感謝したい食品企業の社長との出会い

私が勤めた会社の社長には本当によくしてもらっていました。

「中国いこうや」

その一言で、私の中国出張が決まりました。まだ入社して2年目の頃です。

それからも、「東京いこうや」「研修いっといでや」「飯いこや」

世話になっていました。そこで私が見た景色が、経営者たちの見ている世界でした。

中国出張では、ビジネスが生まれる瞬間を見ました。

いわゆる金持ちの生活を見ました。

経営者たちが気を使ってること、気にするポイントなどを

 

そこで私が見た景色

空港の「ラウンジ」の存在を知ったのもこの時です。自分の専門の知識ばかりにとらわれて、お金や豊かな暮らしに無頓着だった私は、ものすごく自分は情弱で、金持ちの世界とは程遠い経験をしていたことに気付かされました。

経営者のものの考え方をじっくり聞かせてもらいました。正直食事には何回行ったか分からないくらいです。

貧乏思考のただのサラリーマンの考え方から、事業家目線の考え方が必要に感じるようになりました。

「将来はこの企業の事業を任せてもらえる人材になる」

そんな気がわきました。自分は事業を持てるようになるという感覚を育てられました。

 

おなか痛くて入院

急な出来事で、入院しました。腹痛で歩けなくなるくらいの痛さでした。

当時広島にいて、頼る身寄りもなかったので、マジでギャグかと思うくらいとてとてと歩いて最寄りの病院に行きました。

(徒歩5分で行ける病院があってほんとによかった)

病院行ったら、大きな病院にいけと言われて、そのまま救急車にのりました。人生で初めての救急車です。

すぐに入院が決まりました。憩室炎という、腸内の炎症が起きる疾病です。

 

自己管理ということもありますが

貯金もなく。入院費用を親に出してもらうことに。

 

ちなみに、退院してから約半年後に、同じ理由で入院します。

 

「辞めて帰ってきてもいいぞ」

親父に言われました。「辞める」という選択を初めて考えるようになったきっかけでした。

今まで、辞めるなんてありえないとか、そんな気持ちばかりで考えてた自分です。一つ始めたことは最後までやる。そんな自分でしたが、初めて辞めるという選択肢を改めて考えるようになりました。

 

結果、次同じように入院することになったら、辞めて実家に帰ろう甘えようと思いました。

 

YouTubeでの出会い

当時私は、自己啓発やマーケティングの本を読むのが好きでした。

商品戦略や、設計の本を読み漁っていました。

今でもいいなと思う本はこれですね。月並ですがw

 

あ、かっちゃった

1000円のコーラを売れ

 

そんな中で、実は車の運転中も何か聞き流せるものがないかなと思って探していたところ、出会ってしまいました。YouTubeで本を読んでるものがありました。

それをひたすらに聞いてました。

金持ち父さん、貧乏父さんはまさにそれでした。

それからです。

私は、

 

行動を開始した2019年

「会社に努め続けて実績を出しても自分の人生は豊かにならない」と気づいた私は、まず自分でできることを始めようと思いました。

家計の見直しをやってみました。月額の改善額で行ったら相当だと思います。

【生活費の見直し】年収300万円弱の一人暮らしで取り組める生活費の改善 実績例

 

月額35000円ほどの節約に成功しました。

 

メルカリでの不用品販売

 

また、家の中にある不用品を処分しまくりました。

目の前にあるものが、行きていく上で必要かどうか考え、捨てました。ミニマリストへの第一歩。

自分の時間を割いてしまうものを極力減らしていきました。

 

 

 

プログラミングに出会う

副業界隈の話の情報収集してると、「プログラミングは稼げる」という情報に出会いました。

エンジニア界隈のことは、いまいちよく分かってませんでした。

パソコンを仕事にすることができれば、圧倒的に移動することが減る→自分の時間が増える→充実できる

という思考で、とりあえずエンジニアになろうという考えが浮かびましたね。

 

当時自分がいた食品業界では、求められてるのか不明な新商品を作っては売れない作っては売れないを繰り返していて、むしろ作らされているサイクルの中に陥っていました。

エンドユーザーは昔ながらの商品ばかりを買い求めているのに

 

フリーランスエンジニアという仕事であれば、数年スパンでやれば稼げるらしいと聞いた。しかも自分の自由な場所で働けるし、しかもお得意の勉強仕事。こんな仕事あるんや〜と思ってみてたら、まじで収入の額ぜんぜん違うやん!

少なくともエンジニアになれば、働き方は変わるな〜と感じてましたね。

これは自分にもできそうだと思って、プログラミングスキルもつけようと思いました。

しかし、プログラミングの勉強をし始めて感じました。

(時間が全然足りない!!!)

どうしたらいいか悩みながらでしたが、私は本業の食品を辞めることにしました。

私は圧倒的にできるようになりましたからね。

 

この辺りから、情報感度が上がったような気はしてます。